ホワイト社会化と寛容さを失いつつある日本社会

現代の日本社会では、「ホワイト社会化(=透明性や倫理観が行き過ぎ、クリーンで公正さが激しく尊ばれる社会)」が進行し、寛容さが失われつつあるように感じられます。この背景には、メディアリテラシー教育の欠如、リコメンド系アルゴリズムによる思想の画一化、そしてSNSやYouTubeなどのプラットフォームが生み出す偏った情報環境が関係しています。

昭和から平成、そして令和へ——思想の多様性の変遷

例えば、1980年代の日本社会を振り返ると、当時もテレビが情報の主な発信源であり、ある程度の画一化が進んでいました。しかし、その中でも選択の余地は残されていました。小学生の頃は、テレビ番組や少年誌が主な情報源であり、話題もそこに集中していましたが、中学生になると読む本や雑誌が増え、多少の多様化が見られました。しかし、当時の画一化は今ほど極端ではなく、異なる意見が共存できる余地がありました。

一方で、現在の情報環境では、リコメンドアルゴリズムが個々人の興味に基づいたコンテンツを供給し続けるため、知らず知らずのうちに思想が画一化される傾向があります。その結果、善か悪か、白か黒かの二極化が進み、グレーゾーンが許されない社会になりつつあります。本来は容認されるべき「グレーな悪」も絶対悪として扱われ、善=ホワイト以外の価値観が許されなくなっているのではないでしょうか。

中学生時代の「個性を大切に」という言葉

中学生の頃、学校でよく言われた言葉が、「個性を大切に」ということでした。しかし、ホワイト社会化の進行により、社会全体が無個性化していくのではないかという懸念を抱かざるを得ません。

例えば、「健全」という概念がありますが、その意味は価値観によって大きく異なります。ある人にとっての健全な生き方が、別の人にとっては息苦しいものに感じられることもあるでしょう。画一的な価値観が押し付けられることで、多様な個性が尊重されなくなっていくのではないでしょうか。

戦争・政治・メディア報道——善悪の二極化の実例

例えば、ウクライナ戦争やガザ地区の問題においても、双方に異なる正義があり、善悪を単純に決めることは難しいはずです。しかし、メディアやSNS上では一方的な視点が強調され、異なる立場の意見が排除されがちです。

兵庫県知事の報道問題も同様です。これはニューメディアとオールドメディアの対立構造として語られましたが、実際には情報摂取の手段の違いによって思考が画一化され、その結果としてどちらのメディアを主に利用していた有権者が多かったのかが選挙結果を左右しただけではないでしょうか。SNSはスマホに常に入っており、テレビよりも手軽にリーチできるため、結果的にニューメディアが勝利するのは必然だったのかもしれません。

今や70代でもCMだらけのテレビよりYouTubeを見る時代です。高いメディアリテラシーを持っていたとしても、ぼんやりとSNSや動画を見続けていれば、知らず知らずのうちに一方向の思想に引っ張られるのは避けられません。

「間違った人間を叩いてOK」の風潮

先日のフジテレビの10時間に及ぶ会見でも露呈したように、現代社会では「間違っている人間ならとことん叩いてもよい」という風潮が広がっています。本来、メディアリテラシーを持っているべき記者たち(自称含む)ですら、冷静に事実を確認するのではなく、悪と決めつけて責め立てることに終始しています。同じ質問を繰り返したり、外部からは判断できない事柄について執拗に追及する姿は、もはや報道の本質を逸脱しているように思えます。

これは、単に会見の場だけの話ではなく、社会全体の二極化が生んだ現象ではないでしょうか。善か悪かをはっきりさせ、少しの悪も許さないという姿勢が、寛容さを奪っているのです。

カーボンニュートラル問題——「絶対善」の危険性

世界的なカーボンニュートラルの動きも、善悪の二極化の典型例です。CO2削減が「絶対善」とされ、疑問を呈することすら難しくなっています。しかし、実際にはカーボンオフセットの実効性には疑問があり、排出権の売買により、実際のCO2排出量が抑えられているわけではありません。

日本のCO2排出量は世界全体で見れば微々たるものですが、それでも欧州などでは厳しく非難されることがあります。これには単なる環境問題ではなく、EV市場の覇権争いといった経済的な利権も絡んでいるように思えます。このように、一つの価値観が「絶対善」として固定化されると、異なる視点が排除され、寛容さが失われていくのです。

どうすればよいのか?

「ホワイト社会化」による思想の画一化や善悪の二極化が進むことで、社会から寛容さが失われ、異なる立場の人の状況を察する力が弱まっていると感じます。

私自身も、運転中に攻撃的になってしまうことがよくあり、相手のことを考えずに暴言を吐くことがあります。情報過多の現代において、リコメンドアルゴリズムやキュレーションされた情報を頼ることは避けられませんが、それが思考や思想の画一化を招くことを常に意識しなければなりません。

しかし、社会の寛容さを求めるとして、どこまでが許されるべきなのか、その線引きは難しい問題です。完全にホワイトな人間ばかりである筈はありませんし、今後はAIの発展によって、さらに「ホワイト社会化」が進むのではないかという懸念もあります。

我々ができることは、意識的に多様な情報に触れ、異なる意見を持つ人々との対話を心がけることです。すぐに善悪を決めつけるのではなく、一歩引いて冷静に考える習慣を持つことが、今後の社会にとって重要なのではないでしょうか。


ということで、このような話題は様々なところで語られている話題だと思いながらも、将来の私自身が振り返った時のために、簡単に考えを纏めて書いてみました。